2 丹沢山中の宝探し

 平成15年8月15日終戦の日にちなみ、旧日本軍が隠した財宝
の宝探しです。神奈川新聞日曜版(日曜リポ-ト)の紙面に掲載され
た記事によると(全文掲載)

・丹沢に登る人いりゃ穴掘る人も・

    旧日本軍が隠した?平成の宝探し

 今時宝探しなんてばからしい。周囲のこんな視線を気にもせず、平成の宝探しに熱を上げる男たちがいる。男たちが宝の在りかと
 信じるのは、丹沢の奥深い山中。 ここに、旧日本軍が中国大陸 から奪った財宝が埋められている、と言うのだ。さきごろ 敢行
 された山ごもりに同行し、 男たちの「夢の現場」を垣間見た。

    平塚の森さんら遺言に夢を託す

 連休を利用し、丹沢山中にこもって宝探しをしているのは、平塚市中原の建築業、森賢一さん(43)、同市長持、モデルガンショップ経営、広瀬尉冶さん(33)ら十数
 人のグル-プ。旧日本軍が隠した財宝探し−。荒唐無稽とも言われかない森さんたちの行動だが、そのよりどころは、いまから半世紀前のある出来事
 にさかのぼる。上海郊外の野戦病院。森さんの義理の父親の荻田功さん(80)は一人の日本兵から、次のような話を耳打ちされた。「昭和18年、神奈川
 県の◯??山中に上海銀行から接収した財宝を埋めた・・」 荻田さんはたまたま病院に立ちよっただけなのだが、日本兵は荻田さんが神奈川県出身と知ると
 口外無用のはずの財宝話を自ら切り出し、その発堀を託したという。
   「にわかには信じ難い話」 だったが、荻田さんは帰国後、事業に成功し資金を投入し、日本兵の話した山に試掘権を設定。作業員を雇って古い寺跡の
 周辺を何度か掘ってみたという。しかし、結果はいずれも空振りだった。現在その夢は義理の息子とその仲間たちに引き継がれた格好だ。
 「日本兵が父に話した遺言めいた話は本当かもしれないし、うそかもしれない。本当だとしても、すでにもち去られている可能性もある」 親子二代で宝を
 追う森さん自身にも、実は確証はない。だが、英国から30数万円もする金属探知器を購入するなど、夢への投資はいとわない。五月の連休に行わ
 れた今回の宝探しには、19歳から51歳までのメンバ−12人が参加。荻田さんが探した場所と同じ寺の跡にキャンプを張った。スコップを使っての
 穴掘りは、人目を避けるため、日没後に行った。丸2晩、ランタンの明かりの下で黙々と穴を掘り進めたが、出てくる物は石と土、それに古い空き缶ばかり。 
 「この石がダイヤだったらなあ」メンバ-のつぶやきがやみに響く結果に終わった。森さんたちは、サバイバル(生存)術を勉強する同好会の仲間同士でもあり、
 2泊や3泊の野外生活は慣れっこ。穴掘りの重労働も苦にならない。「財宝が見つかったら新しい事業を展開したい」 と真顔でソロバンをはじく
 人もいるが、山師のようなギラギラした雰意気は皆無。宝探しと言う、つかの間の「非日常」 を楽しんでいるかのようだ。
 「休日に家でごろごろしていて、家族に粗大ゴミ扱いされるよりは、気晴らしになっていいじゃありませんか。(宝が)見つかるか見つからないかは大きな問題
 でない。強いて言えば男のロマンですよ」 参加者の一人、会社員の増田義明さん(51)はこう話し、スコップを握った。
 メンバ-のロマンの泉が枯れない限り、森さんたちの宝探しは今後も続きそうだ。
            以上(全文掲載)
 !!!毎年5月の連休を利用して宝探しをしていました。
 死体探しの隊員と同じ全員が社会人、年次休暇等を利用調整して1週間連続して休む様にしました。新聞によると、その日は19歳から51歳の12名のメンバ-
 が宝堀に参加したと記載されています。
 もっとも私のテントに神奈川新聞平塚支局長が宿泊してこの記事を書いていたわけですが。
 そんなわけで毎年宝探しをしていました。総額20兆円、山分けして一人2000億円ほど、国へ90%税金として払っても一人200億円ほど、見つかれば夢のような
 はなしです。 ところで、穴を掘るにしても、現場に行くのが大変です、登山するだけで大変なのに、滞在期間分の食料と水、着替えや、嗜好品、
 穴掘り道具(鶴嘴、スコップ、大ハンマ-、ロ-プなど)、それにキャンプ用品と分担して、すべて担いで登山するのです。そして、掘る道具は鶴嘴、スコップ、
 大ハンマ-と、まるで旧日本陸軍の日本兵です。もっとも宝をうめたのが旧陸軍日本兵では仕方ないのでは、と変に関心します。
 丹沢は年間を通じて、登山を志す人はもとより有名な場所(国定公園)です。登山者を装い、テントを張り軍服姿で食事の用意や夜間作業に備えて日中は
 ほとんど寝ていました。新兵の頃、個人用テントが無く、ポンチョをテントにして、4晩過ごしましたが。夜中、外で目が2つ光っているときは、気持ち悪かった。
 また、生活用水は18 g のポリタンクを背負い雨降神社まで水くみにでました。山中で冷たい物がほしいとゆうことで、ガス式の冷蔵庫を
 担ぎあげた事があり、やっと担ぎ上げたらガス漏れで使用出来ず何のために担ぎ上げたのか、またQちゃんが、崖から落ちて意識不明になった
 時は、崖に張り出した大木に樋渡さんがロ−プをつり下げ、丁度ブランコのような所にQちゃんが足をかけ、タ−ザンのまねをしていました。私はテントのそばで、
 何気なく見ていたところ、ス−と落ちていくではありませんか。慌てて走り寄ったところ、崖下にみえません。這い上がるのが困難ながけ、隊長は救急車に連絡
 をとるよう、また、救出隊を2手に分け、1隊は崖を下り、1隊には登山道を適当に降って横あいから、捜索するように手配して、私には、救急車が来たとき
 の道案内役として、下山の指示を出しました。救急隊員が来たときの説明は、単に足を滑らした、と言うように、と指示を受け、雨上がりの道を出発しました。
 車の通れる道にでて待つこと、その時のスタイルは、レンジャ−キャップに迷彩服ジャングルブ−ツにサングラス、その上にポンチョを被ったスタイル。
 暫くして、救急隊員が来ましたが。警察官が同行するとは聞いていなかったので私はビックリ、警察官は敬礼して迎える私の格好を見てビックリ、事情を話し早速
 救出にむかいました。道々、警察官から、いろいろ聞かれましたが、適当に答えていましたが、職務質問だったのかも。救急隊員からは、隊員が何名かいるなら,
 怪我人の下山の際、タンカによる搬出をお願いします、と言われて、ハイと安直br> に答えましたが。あとで、タンカによる搬出が、これ程大変とは、気が付きません
 でした。6人で細い登山道を、怪我人を乗せたタンカ搬出、簡単に思われるでしょうが、同じ側の手で持つことが多く、手が抜ける様でした。発見された
 Qちゃんは、救急隊員が呼びかけても意識不明で、いびきをしているだけ。死ぬのではないかと、心配でした。後日、ピンピンしているQちゃんに会い、
 様子を聞いたところ、立木のぶつかりながら転がり落ちたので、一命をとりとめたとのこと、安心しました。その他、メンバ−全員が何らかのケガか腹痛等に見舞われたり、と
 不思議な体験もしました。寺跡とゆうことで盛り塩をして結界をつくり、現場を、清める、ことなどもしました。国定公園でもあり、日中は登山者が通る
 登山道がやや下の方にあり、人目を避ける意味もあり、暗くなる夜8時ごろから行動を開始しましす。今までの言い伝えや、時には、盲目の占い師に登山して
 もらい宝の在処を占ってもらったりもしました。そして、ここだと思われる場所を掘るのですが、1個分隊10名強を2名づつ5分間掘ります、限られた時間で
 最大能力を発揮すると5分が限度です、それ交代それ交代と夜通しつづきます、ある時長さ3M巾1M近い大石が現れたときは、
 石の裏がわに宝があるのではといろめきました。大ハンマ-で苦労して打ち砕き、がれきを取り除いて丹念に調べましたが、あるのは土くればかり、
 全員の落胆しきりでした。 続きはまたいつか。 筆者   東山春美

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